良い文章は自分の中に
良い文章は自分の中にある。誰がなんと言おうと。
世の中には事実は一つしかないかもしれないが、真実は2つぐらいある。 一つは他人の中にある真実。もう一つは自分の中にある真実。
この二つの真実は必ずしもいつも一致するわけでもないし、そもそも一致することはないのかもしれない。
普段人とコミュニケーションをしているとふと思うことがある。この人と自分の共通認識はどこで辻褄が合っているのだろう。
同じ赤と言ったとしても、僕の赤はもっとオレンジっぽいかもしれないし、彼女の赤はもっと青に近いかもしれない。わからない。 でも、赤が好き、って言った時の赤は、僕たちの間にある。その言葉に浮かれて、後々楽しい時間を過ごした後、現実に直面して落胆するなんてことは往往にしてあるのだけど。
話が逸れた。僕たちはファジーな世界でファジーな感じでやり取りしてる。一つの言葉にしてもその定義は幅広く、また言葉の質感も重さも人によってまるで異なる。僕たちはベン図を書いてその中央の重なるスペースでコミュニケーションをとっている。
たまたま、僕の赤と彼女の赤に重なる部分があっただけだ。
それは狭いかもしれないし、広いかもしれない。
というわけで、言葉結構曖昧で、それでなんらかの共通認識ができていてそれでコミュニケーションができているのはすごいと思うし、面白い。奇蹟的すらであると思う。僕たちは自分の曖昧な認識を他人というフィードバックを通して再度認識している。赤といったときに緑が返ってきたらそれは自分が間違っているかもしれないし、相手が間違っているかもしれない。けれど緑が返ってきたところで君が微笑んで僕も笑えれば、それはお互いの中にいつのまにか何か共通認識ができていて、斜め上に新たなベン図が書かれてる。面白いし、喜ばしい。
話がまとまらない。言いたいことを元に戻すと、誰がなんと言おうと君がいいと思った文章は言い訳で、それに誰かが難癖をつけようと関係ない。そしてその文章の大部分が関係ないとしても、たった一文、胸を打つ文章があれば、それは君にとって宝物だ。
人生だって、何かのハイライトを除けば、残りは冗長かもしれない。文章で書いたら、長い、短くしろ、なんてツッコミを受けそうで。ネットなら。
でも、そのハイライトを分かり合える人にとっては、その冗長さもあってこそ。だから、それでいい。
たった一文でも、胸を打つ文章に出会えたら、僕はそれで嬉しい。
美はみるものの目に宿る。
僕にとっての真実は、僕が決める。
「セーターとは別のなにかを脱ぎ捨てていくような感じがした。」
http://www.daiwashobo.co.jp/web/html/mob/forty-years/vol04.html
僕はこの一文を読んで、そう思った。